休職する前はどんな生活をしていたのか。
朝6時に起床し、娘の朝食を支度。保育園への送りは妻に任せて会社へ出勤。仕事を終わるとダッシュで保育園へお迎え。帰宅後に夕食を作り、娘をお風呂に入れてから少し遊んであげて21時に就寝。亡くなった母が身の周りの事が自分で出来てるうちは可能な限り本人に任せていた。
職場の同僚や上司は私の状況に配慮して頂き、今の部署へ異動以降は残業なしで数年過ごしていた。「絶対に残業しない!」という信念で、自身や部署の仕事の効率化を図り続けて成果をあげていた。ところが、結果を出せば出すほど仕事は増えるのだ。会社員ではよくあること。そしていつの間にか自部署の業務以外の様々な仕事やプロジェクトを掛け持ちするような状態になっていた。例えば、産業廃棄物の処理や会社案内の動画作成など、社内でやる人・部門が決まってない仕事は、総務部に人が足りないと言う理由で、役員が私を指名して仕事が来るような状態だった。
「仕事は増えるが、業務時間は増やせない」と言う状況は、仕事密度を上げるしか方法はないため、どんどん自分が疲弊するのを感じていた。次第にうつ病の前兆である神経痛も自覚していた。ストレスを感じると左手に痛みや震えが現れる。
不幸中の幸いにもコロナショックにより会社の就業規則が大きく変わり、在宅勤務とフレックス勤務が社内で認められるようになった。製造業のため本来の部門業務は現地(会社)に行かないと完了しない仕事だったが、勤務制度を最大限に利用しながら様々な仕事を回していた。例えば、朝は会社へ出て、午後は在宅でデータ分析・書類作成など。
出世欲も無いため、介護と育児を理由に2年ぐらい管理職への昇格も断っていたが、とうとう前課長が定年を超えたため、仕方なく課長職に就いた。部署・部下のマネージメント業務や参加会議も増えて更に時間が足りなくなったところで、母のガンが脳に転移して完全介護が必要になったところで完全にオーバフローした。
暫くは家から離れられない状況になった事を会社に申し出たところ、完全在宅勤務にしても良いと許可が出たが、仕事の責任からは逃してくれない。要介護4になった母の世話を始めて24時間まともに眠れない日々が数週間も続くと、頭は働かなくなり、体も気持ちも病んだ末、意を決して休職を申し出た。
休職前の私はとても頑張り過ぎていたと思う。もっと早く「ギブアップ」しておけば良かったと後悔している。もしも体調が良くなり、また仕事に就いたとしても、以前のような自分には戻れなくなったようなダメージを負った気がしている。
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