2度目のガンマナイフ手術は成功したが、退院後の母の状態は急激に悪化していき、介護する私の体力と気力も日増しに衰えていった。
認知症
まず、認知症の進み具合が一気に加速した。時計が読めなくなり、時間の感覚が分からなくなると、窓から空の様子を眺めても昼夜の判断が出来なくなった。既に亡くなった父を探し始めたり、私を父と間違えるようになった。
自分が病気である事も忘れてしまうと、以前と同じような生活をしようとする。歩けなくなった事を忘れてベッドを降り、そのまま床へ転倒することが何度も起きてしまい、目を離すことが出来なくなった。
トイレの介助
トイレに連れて行くようにと毎晩、何度も呼び起こされるので、私はまともな睡眠時間が取れなくなっていた。ついさっき用を足しても、それを忘れてしまう。母の身体をベッドから起こして、抱きかかえてトイレまで連れて行き、便座へ座らせる作業は重労働で、1日に十数回も行っていると腰痛を発症した。
ボケの進んだ母は、とにかくトイレへ行くことへの執着が強くなった。夜中に私が寝ている間も、トイレに行くために一人で動いていた。「ドスン!」と大きな音で目を覚まして母の元へ駆けつけると、床に突っ伏した母の姿と、暴れて散らかった室内の様子を見ることも日常的になっていた。
ベッドから落ちた身体を床から持ち上げるのが重労働。一人でベッドから出ないように何度もお願いするが、一度寝てしまったら忘れてしまうようだった。一人で降りられないようにベッドに柵を設けようと考え、看護師さんやケアマネさんに相談してみたが、それは「拘束」扱いになってしまうようなので反対された。
ベッドのすぐ横に簡易トイレを設置したが、全く使ってくれない。私も体力が衰えてトイレへ連れて行くことが困難になったので、オムツへ排泄するように頼んでも頑なに聞いてくれず、何度も言い合いになった。
看護師さんが訪問してくれるようになり、ベッドで排泄処理をしてもらえるようになったが、亡くなる直前までトイレへ行きたがっていた。
私がダウン
年末休暇に入ると、私と妻と娘の3人が揃ってウイルス性胃腸炎にかかってしまった。それでも母の介護は休めないので、この時が最も辛かった。大晦日には私が完全にダウンしてしまい、元日だけ姉が来てくれて世話を交代してもらった。
不眠不休での介護が2ヶ月も続くと体力的な辛さは勿論のこと、精神的にも大きく疲弊していた。話の通じなくなった母に苛立ち、ついつい強い言葉をぶつけてしまう事もあり、自己嫌悪に悩むことも多くなる。目の前の母が日に日に、私の知る母ではなくなっていく様子を見るのも辛かった。
酸素吸入器を設置
年が明けて間もなくすると、間質性肺炎の症状も進行して酸素吸入器を設置した。しかし、母は「鬱陶しい」と言って利用を嫌がり、目を離せば鼻に繋いだチューブをすぐに外してしまう。ますます目が離せない状況になったが、酸素の吸入量は減っていても通常の呼吸を苦しむ様子は無いので、私も無理強いせずに可能な範囲で装着させた。
それからは食事量も一気に減り、飲み物しか口にしなくなった。食事と反比例して医療麻薬の量が増えていくと「いよいよかな・・・」という心づもりが出来て、”哀しみ”と”安堵”の気持ちが芽生えてきた。
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